まいてつ二次創作小説
右田双鉄のメリハリ学習週間
【1】れいなの場合 〜天然結晶の見る夢〜
 ポーレットにより双鉄の『メリハリ学習週間』が宣言された翌日。  午前中の運行を終えて石造機関庫に帰還した8620は、意外な人物――というか意外なレイルロオドの出迎えを受けた。 「おかえりなさ〜い」  と手旗を振って誘導してくれるのは、まるい顔にまぁるい笑みを浮かべた整備体(せいびボディ)のれいなだ。  小さな身体ながらピンと腕を伸ばして旗を振る彼女の姿に、そういえば御一夜温泉駅のホームであの元気な姿を見かけなかったなと双鉄たちは顔を見合わせる。 「にぃに、れいなちゃんと例の休み時間講義やらで待ち合わせしとったと?」 「いや、そういう話はしていないな。それに僕の休憩時間までは、まだかなり時間がある」 「ふぅん?」  すでに8620は人の徒歩よりも緩やかな速度だ。炭を投げ入れる作業も必要なくなった日々姫は、運転台の窓から身を乗り出してれいなに向かって手を振った。 「れいなちゃん、たっだいま〜!」 「ひびきさん、乗務おつかれさまですよぉ」  返るのはいつも通りのおっとりとしたまるい声。  顔も、笑みも、声すらも『まるい』れいなの様子に、日々姫はとりあえずひと安心して双鉄にうなずいてみせる。  緊急の用事があるようではない。  それだけがわかれば十分で、双鉄たちは一度彼女の存在を頭から追い出して8620の停車処理に集中した。とは言っても、蒸気を絶って惰行している蒸気機関車は自重と摩擦で勝手にその動きを緩めていく。ここから機関士が行うのはカタツムリの歩みよりも遅くなった足取りに最後の『締め』を入れてやることだけだ。 「自弁、『運転』良し。単弁、『緩ブレーキ』。逆転機、ミッドギア。――良し」  8620が自重で自然停止したのを確認して、列車全体にかけていた自動ブレーキを解除、続いて機関車自体に単独のロックをかけ、最後にこれ以上前進も後進もさせないという意味を込めてギアをミッドギア――つまり自動車でいうニュートラルに。  毎日のように繰り返している手順を、しかし決して侮ることなく一つ一つ喚呼して確実にこなす。  そうして滞りなく乗務を終えた双鉄たちが運転台から下りると、 「みなさん、ポーレットから差し入れですよぉ」 「おお、これはありがたい!」  れいなが足元のクーラーボックスを開くと、そこに人数分のペットボトルと真っ白なタオルがあった。もしかしてとタオルを手に取れば、ビニールに入れた氷を下敷きにして冷やされた濡れタオルだ。 「くあぁ……これはたまらんな!」 「生き返るぅ〜♪」  汗だくに煤まみれの乗務終了直後にこの差し入れは何事にも代えがたい贅沢だ。双鉄も日々姫も雇い主からの厚意をありがたく頂戴して、よく冷えたタオルに顔を埋めた。  一方、整備体に切り替えたハチロクはペットボトルの水を一口含むと、そのか細い喉をこくりと動かして、 「これは……以前この子にいただいた蒸留水?」  蒸気機関車専用レイルロオドらしい水ソムリエぶりを発揮していた。  当然のことながら、蒸気機関車のボイラで使用する水としては、不純物の取り除かれた蒸留水があらゆる名水を押しのけて一番上等なものだ。  しかし、嗜好品としての味で比べるとなるとどうなのか――その答えはハチロクの微妙な顔に表れているようで、双鉄は少々の興味と共に尋ねてみた。 「実際どうなのだ? 蒸留水というものは」 「はあ……。人間の食事に例えるならばおかゆに近い、でしょうか。お腹の中で処理する際の負荷が少ない代わり――」 「味気も無い、か」 「ええ。以前はそこまで気にならなかったのですが、クマ川のお水に慣れてしまうといささか……そうでございますね。おっしゃる通り、味気無い、という表現が一番近いと思います」 「そうか。そう言ってもらえると僕も嬉しい」  御一夜を象徴する川の水を褒められると、双鉄も無条件で上機嫌になってしまう。 「人間の僕が飲んでも、クマ川の水は美味いからな。御一夜に来るまで、まさか水にここまでの差があるなど思いもよらなかった」  双鉄自身は御一夜市の生まれではないが、第二の故郷として愛着のある町だ。強い思い入れがあるだけに、ハチロクのグルメレビューは快いものであった。  そうやって乗務の汗をタオルと飲み物で軽く落ち着かせることしばし。  黒ずんだタオルを首に引っ掛けて一息つくと、双鉄は改めてれいなの方に確認した。 「それで、れいなはどうしてここに? ポーレットの差し入れだけ……ではないよな?」 「ではない、ですよぉ。そうてつさん、今日のお休みの時間、れいなが先生をするの覚えていますかぁ?」 「ああ、それはもちろん。だが、僕の休憩時間はまだ先だ。故に、れいながこれほど早い時間にここにいることが疑問なのだ」  時刻管理はお手のものであるレイルロオドが社員の休憩時間を間違えるとも思えない。  素直に疑問の目を向ける双鉄に、れいなは「それはですねぇ」とクーラーボックスから大きめのビニールを取り出した。  透明なビニールに包まれたその中身は、双鉄にとって見慣れたものだ。 「ナッパ服?」 「ぴんぽんぴんぽーん。せいかいですよぉ」 「ハチロクのもの……ではない、か」  れいなが手にしたナッパ服は、双鉄や日々姫の着るものに比べて明らかに小さい。そのサイズとなるとハチロクのものになるが、それではれいながわざわざ得意げに見せびらかす理由にはならない。  ならば、 「もしかして、れいなのものか?」 「えへへぇ。ポーレットにおねがいして用意してもらったですよぉ」 「ほう」  なるほど、と双鉄は自然と頬がゆるんだ。畳まれたナッパ服の襟の内側部分に『れいな』という名前がマジックで書かれた名札が縫い付けてあったからだ。 (れいなにねだられて、ポーレットが縫い付けたのか)  おそらく深夜。仕事が終わって疲れた身体に鞭打って、重い瞼と戦いながら縫い付けてくれたに違いない。  その様子を想像するだけで微笑ましくて、双鉄は目を細めながら確信の予想を口にする。 「では、れいなは8620の整備を手伝ってくれるつもりなのだな?」 「はいですぅ。そうてつさん、お休みの時間に自分だけよごれてると気にしちゃいますから、れいなもい〜っぱいおてつだいして、い〜っぱい黒くなっちゃいますねぇ」  にっこりと微笑むその意図は、幼い外見に似合わない気の遣いようだ。  だが、上気した頬には大人びたという表現からほど遠いワクワクした感情が見え隠れしており、彼女が単純に親切心から整備を言い出したのではないことは明白だった。 (この顔は……見覚えがあるな。どろんこ遊びをする時の路子の顔だ)  幼い頃、雨上がりの公園で双子の妹と真っ黒になるまで遊んだ思い出が脳裏によぎる。  それは懐かしくも少し切ないセピア色の思い出であったが、目の前にある色鮮やかなりんご色のほっぺたは、そんな感傷も吹き飛ばしてしまうくらいに元気いっぱいだ。  しかし、汚れる気満々となると心配になることもある。 「今汚れてしまって、夕方の運行は大丈夫なのか? れいなには改札やレールショップでの業務もあるだろう」  基本運転台勤めの双鉄と違い、れいなは直接お客様と接する仕事もあるのだ。その時に煤や油にまみれていては困るのでは、と双鉄は思ったのだが、 「だいじょおぶですよぉ。そのためのナッパ服ですし、お風呂にも入りますから」 「お風呂? しかし登呂流湯は夜にならないと――あ、いや、そうか、前にもあったな」  口に出しかけた疑問に、双鉄は自分で答えに行きついた。  それは路子の思い出ほど古くはない、つい最近の印象深いとある一日の出来事だ。セピア色ではなく総天然色のその思い出の中で、確かにれいなはレールショップでほのかな石鹸の匂いを漂わせていた。 「僕とハチロクが初めてれいなとポーレットに会った日。あの日、レールショップに来たれいなは風呂に入った後だったな」 「ふわわぁ! そうてつさん、覚えてくれてたんですねぇ!」  双鉄の言葉に、れいなが笑顔をパァッと華やかせた。もとから笑顔だったところにそれだから、太陽もかくやという輝きっぷりだ。 「ということは、駅のすぐ近くにあるのか。風呂に入れる場所が」 「ありますよぉ。だかられいな、いくら汚れてもへっちゃらなんですよぉ」  むん、と両腕で力こぶを作るポーズをとる。それが無敵のポーズであることは双鉄にもわかり、それならば業務上も問題ないだろうとうなずいた。  同時に、自分の浅はかさにも気づいて肩をすくめる。  そもそもれいなは双鉄などよりずっと以前から御一夜鉄道で働いているのだ。先ほど思いだしたレールショップでの一件でも、客と触れ合う場所では常に清潔にという理由で身を清めていた。 「釈迦に説法、だったな」 「おしゃかさま? なむなむですかぁ?」  知らない言葉だったのか、れいなが不思議そうに両手を擦り合わせた。その様を見て、双鉄はレイルロオドにも信心というのはあるのだろうかと思ったりもしたが、話を無駄に脱線させることはせずにれいなにもわかりやすいように説明する。 「うむ。なむなむのお釈迦様だ。この場合は、その道について自分より詳しい人にこの道はこういうものなのだぞと偉そうに説明する愚かしさを言う」 「?」  例えが漠然とし過ぎていたのか、れいなが首を傾げる。ならばもう少し身近な例が良いか、と双鉄は具体例を出すことにした。 「そうだな……僕がハチロクに向かって『8620の性能を説明してやる。ありがたく思え〜。わはは』などと言っているのを見たら、れいなはどう思う?」  台詞の部分を子供番組の悪者のように芝居がかった口調で言ってやると、隣で聞いていた日々姫が無言で肩を震わせたが、双鉄は気にしない。  日々姫が幼稚舎に通っていた頃に、同じように尋ねられては芝居けをたっぷり加えて説明してやった歴史があるのだ。あの頃、肩を震わせるのは日々姫ではなく真闇の仕事だった。  ともあれ、かつて幼い日々姫相手に磨いた演技力はれいなにも効果的だったらしい。尊大な悪者の言葉にれいなは大きな瞳いっぱいに驚きを浮かべ、その悪者の『愚かなところ』を指摘する。 「それは、8620のことならハチロクさんがいちばんよく知ってるのに……あ〜!」 「うむ。まさにそれが、釈迦に説法、という状態だ。僕がれいなに夕方の運行は大丈夫かなどと尋ねたのは、釈迦に説法だった」  これにて説明終了と双鉄は思ったが、しかし言葉の意味を理解したれいなは逆に慌てたように両手をブンブンと振った。 「い、いいええ。そんなことないです。れいな、気になったことを質問するの、いいことだと思いますぅ。ダブルチェックはたいせつですから」 「ダブルチェック」  恐縮するれいなの言葉に、そういう考えもあるのかと双鉄は感心した。  そこにあるのは『詳しい・詳しくない』『上位・下位』などの条件を全て取り払った、一種機械的とも言える確認フローだ。 「だが……いや、『そういう話』だったな」  『メリハリ学習週間』自体が、作業の慣習化を排除した安全マニュアルの徹底順守を最終目的としたものだ。  さすがレイルロオド、と改めて双鉄はれいなを見た。  運転体(うんてんボディ)に比べればずっと大きいとは言っても、整備体のれいなはハチロクのそれよりもかなり小さい。距離を詰めれば、お互いに真下と真上を見るような位置関係になり、なかなかに首が疲れる身長差だ。  しかし、それほどの小柄であっても、れいなは鉄道に従事するために生まれてきたレイルロオドという存在である。こうした雑談の中でもその言動には鉄道業務への真摯な姿勢が色濃く表れ、双鉄は感銘を受けることいとまがない。 (小さな巨人、だな)  れいなにもハチロクにも、小人である双鉄はまだまだ多くを学ばなければならない。  さしあたって、人手不足の庫内手としての清掃整備その他もろもろだ。 「ダブルチェック、確かにその通りだ。僕にはレイルロオドのような共感も無いからな」 「そおですよぉ。ダイアの変更とかマニュアルの更新はよくあることですから、ちょっとでも変だなあって思ったら、すぐにれいなかハチロクさんに確認してくださいねぇ」 「うむ」  そのためのレイルロオドですから、とまぁるく微笑む。実に頼もしい姿だ。  なので、 「では、せっかくだし今日は8620の整備を一から学びなおしていくとしようか。れいな、ハチロク、二人ともよろしく頼む」 「はい、双鉄様!」 「れいな、よろしくたのまれましたぁ!」 「うへぇ……」  双鉄が気勢を上げると、それに応える元気いっぱいの二つの声と、うんざりを隠せない一つの声が返った。  その声に振り返れば、こっそりと足音を立てずに抜き足差し足でその場から逃げ出そうとしている日々姫の姿を見つけることができて、双鉄は義兄の権限をもって義妹の襟首を捕まえる。  逃げられなかった義理の妹は、絶望のため息を一つだ。 「はいはい、わかりました。私も兄さんにお付き合いしますよ!」  機関庫の高い天井窓まで、日々姫の悲鳴じみた声が響き渡る。頭上の鉄骨に並ぶ煤まみれの真っ黒な雀たちは、その悲哀を知ってか知らずか、可愛らしく首を傾げるのみだ。  ともあれ――そうして予定になかった『御一夜鉄道・庫内手講習』が密度たっぷりの内容で実施されることになったのである。               ※ ※ ※  で。  結果を言えば、臨時の庫内手講習は有意義なものであった。  毎日整備している8620とはいえ、正式な講習を受けたのはもはや数ヶ月も前の話だ。細かなところで油の拭き残しなどを指摘される度、双鉄は自分たちの足りなさを再確認させられ、より丁寧な作業を心掛けた。  最初は不満げに頬を膨らませていた日々姫も、正規の技師たちに整備された直後の8620の写真と現在の汚れ具合を比較された後は、むしろ双鉄よりも熱心にハチロクたちの講習を聞いていたくらいだ。 「綺麗に磨き上げていたつもりだったが……毎日見ているからこそ、日々色あせていることに気づけないのだろうな」  定期的に過去の写真と見比べることの大切さを痛感した兄妹である。  そもそも、ハチロク曰く鉄道の総本山である帝鉄などでは機関士とは『庫内手』『機関助士』の期間を経て、それぞれの試験に合格して初めて辿りつける役職だ。  人手不足とはいえ専門の庫内手期間無しに機関士と機関助士を担当している双鉄たちには、こうした『整備を講師にチェックされる機会』は遅かれ早かれ必要だったに違いない。  そして、現在の8620を取り巻く環境は整備――特に『外回り』と言われるお客様の目に触れる外観部分の整備の重要性は大きい。  日用ならぬ観光列車である『バーベキュートレイン』に求められるのは、第一に見た目の美しさだからだ。  わざわざ御一夜市まで8620に乗りに来るお客様は、当然ながら蒸気機関車に興味がある人々ばかりだ。そうなれば、8620の車体には注目が殺到する。記念写真を撮るお客様も多く、その時に車体が薄汚れていては、観光気分も台無しというところだろう。  故に、外観整備は大切だ。  8620の造形美は鉄道を苦手としていた双鉄ですら魅了したのだ。だから、その魅力を損なわず十全にお客様に届けられるように、日々積み重なる煤と油の汚れを庫内手たちはそぎ落としていかないといけない。  そう、文字通り『そぎ落とす』だ。  ボイラーの表面を磨いていた双鉄は、炭水車側で作業する二人のレイルロオドを見る。  二人は専用の金属ヘラであるスクレイパーを使用して、炭水車表面の汚れをゴリゴリとそぎ落としていた。  炭水車は黒いので遠目にはわかりにくいが、油拭きされた車体は運行の度に煙に巻かれて煤が付着し、埃や砂塵も混じって薄汚れている。その汚れを二人の目は見落とすことなく捉え、熟練の手さばきで見事にそぎ落としていた。  だが、その成果は見事であると同時に、悲惨でもある。  小さな二人は炭水車に張り付くようにして作業しているのだが、手を伸ばして高い位置の処理する度に、ヘラからこぼれた油と煤が頭上から彼女たち自身を汚していく。  ヘラを持つ手は袖から真っ黒に。  見目好く被った帽子も、あっという間にドロドロに。  その様は、蒸気機関車の汚れを整備体の彼女たちが代わりに引き受けているのではと錯覚するほどだ。  おろしたてのナッパ服にはしゃいでいたれいなが汚れを気にせずに黙々と作業する姿には、ある種の犠牲的な美しささえも感じさせられる。 (負けていられんな)  整備は機関車だけで済むというものではない。ある意味、お客様が直接乗り込む客車の方が整備には気を遣う部分もある。  何せ、『バーベキュートレイン』は食べ物を扱う企画列車だ。時にはお子様が皿をひっくり返し、タレを床にぶちまけていることもある。細かな肉片や野菜が、座席の下に潜り込んでいることもある。  そうした汚れが次の運行時に残らないように、徹底的にチェックし、磨き上げる。  それは神経を使う作業であったが、今日に限っては忙しいと同時になかなか楽しくもあった。  要因としては、やはりれいなの存在が大きい。  一つの列車に対してレイルロオドが二体。これは単純に作業効率が倍になるだけでなく、人間たちへのフォロー速度も明らかに早くなっていた。その見事な連携は、双鉄たちには聞こえない部分で共感による情報交換が行われているからこそだろう。  そうして――。 「あ〜、もうダメばい……!」  午前中の乗務からそのままの整備講習――過酷なスケジュールに日々姫が体力的に根を上げたタイミングで、本日一度目の『休憩時間』がやってきたのであった。               ※ ※ ※ 「ひびきさん、おつかれですねぇ」 「うむ。日々姫はあれで一度やると決めたことに対しては我慢強いからな。その上であの声が出たということは、本当に限界までがんばってくれたということだ」  石造機関庫の一角――大型の機材を椅子代わりにして双鉄とれいなは昼食を広げていた。  話題と言えば当然のように奮闘した日々姫に関することで、その日々姫はといえば二人から少し離れた場所で機関庫の床に直接座り込んでへたっていた。  日々姫はナッパ服の前ボタンを上から四つ分まで外しており、そこからささやかな胸の膨らみがのぞいてしまっているという身内以外には決して見せられない油断した格好だ。  ハチロクはそんな彼女の汗ばんだ肌を労わるように団扇で風を送ってやりながら、双鉄の方へ目配せを送ってうなずいてくれる。 (問題なし、ということか)  ハチロクのことなので、日々姫の体力を見積もりに入れた上でのスパルタ教育だったのだろう。休憩時間に入ると同時に日々姫がギブアップしたというのは、まさに完璧な疲労コントロールの証明だ。 「ハチロクは……いや、れいなもだが、僕ら自身よりも僕らのことを見てくれているのだな」 「そおですねぇ。れいなたち、そおいうふうに作られていますけど、ハチロクさんはとくにそうてつさんたちのことい〜っぱい見てると思いますよぉ?」 「そうなのか?」  ならば『レイルロオドらしさ』とはまた違う部分なのかと双鉄が目をパチクリさせると、れいなは邪気の無い笑顔で双鉄に『良いこと』を打ち明ける。 「あのですねぇ。ハチロクさん、そうてつさんのことでナビさんに負けたくないって――」 「れ、れいな!」 「はわわぁ!?」  ハチロクからの一喝に、れいなは失言をしたと慌てて両手で口を塞ぐ。しかし、驚いたのはれいなよりもむしろ双鉄の方だ。  双鉄がハチロクの横顔を見れば、彼女は双鉄から見える片頬を朱色に染めて唇を引き結んでいる。記号にするなら「〜」という感じの口の形で、れいなの無邪気さとはまた別の方向で子供っぽい。 (あ、これは)  触ってはいけない話題だ、と双鉄は察した。  れいなを叱責したということは、双鉄には聞かれたくない類の話――いわゆる『女の子のナイショ話』というものなのだと予想はつく。そのくらいには、双鉄は義理の姉妹との生活で経験を積んでいる。 (詳しく聞こうとすると何故か僕が怒鳴られるのだ。この類の話は)  故に、双鉄は「ん、んっ!」と咳払いをしてその話題を打ち切った。さらにダメ押しとして、朝に真闇が持たせてくれた握り飯を一口食べる。 「うむ、美味い。新米の季節だな」  誤魔化しのためのお世辞ではなく、正直な感想で双鉄は舌鼓を打った。粒が立ち噛み締めるほど甘い新米と、具として入った辛めに調理された高菜の相性が実に素晴らしい。 「日々姫とハチロクも、落ち着いたら食事にするといい」 「は〜い。ハチロク、外で食べよ。ここ風通しが悪くてたまらんもん」 「……こほん。では、双鉄様。急なご用がありましたら、れいなの方に」  身体を重そうに動かして日々姫が立ち上がると、誘われたハチロクも双鉄たちの意図がわかったのか、赤らんだ顔におすましな表情を作って双鉄に「共感で連絡を」と言った。  共感通信――そういう理由があれば、ハチロクは自然に続けることができる。 「れいな。よろしくね」 「〜〜〜〜!」  手で口を塞いだまま、れいなはコクコクと何度もうなずいた。  そうして、弁当を持った日々姫たちが離れていくと、れいなはようやく口の封印を解いて深く息を吐いた。 「ぷしゅ〜……。ぶれーき、緩解ですぅ」 「次からは信号を見て、適宜速度調整を頼む」 「わかりましたぁ」  お口にチャック、とれいなは口の前でジェスチャーをする。その様子を見ると、れいなもまた双鉄と同じように『女の子のナイショ話』の機微がわかっていなかったのだろうと想像できる。  れいなはハチロクの『ナイショ話』を双鉄に伝えることが『良い』ことだと思ったから話そうとしたのだろう。  その証拠に、未だにれいなは不思議そうに言うのだ。 「でもでもぉ。ふしぎなんですよぉ。機関士(マスター)にかくしごとなんて、ハチロクさんらしくないですぅ」 「うむ? それはそうなのだが……」  そういう認識なのか、と双鉄は苦笑いする。  れいなからすればハチロクの抱えたナイショは『機関士への隠し事』という背信行為なのだろう。 「きっと、あれも複雑なのだ」 「はー。ハチロクさんは、トップナンバー機ですからねぇ」  結局、そういうところにれいなの理解は落ち着いたらしい。だがそれはレイルロオド独特のものというよりも『女の子のナイショ話』に対応する『女子年齢』の問題なのではと双鉄などは思う。 (日々姫がナイショ話を始めたのは、いつ頃だったか……)  少なくとも、今のれいなの見た目よりは大きくなってからだ。  れいなは年齢通りの落ち着きを見せるハチロクに比べ、見た目通りに言動が幼いことがままあるが、それは彼女たちに与えられた役割が影響しているのかもしれない。  ハチロクは国産量産第一号機関車のトップナンバー機として、その後生まれた全てのレイルロオドたちの姉としての役割を。  れいなに関しては鉱山鉄道時代について双鉄は詳しくないが、少なくとも現在は母性溢れるポーレットのもとで娘や妹としての役割を。  それぞれにそうした役割を与えられ、その立場に沿ったコミュニケーション能力を発達させているため、れいなの『世界への接し方』も『娘・妹』として育まれたものになっているのではないか。  双鉄はそこまで考え、スキットルを傾けて豪快に軽油を飲んでいるれいなのあどけない姿を見遣る。 (ともあれ、れいなにはまだ早い話題なのだろう)  もちろんレイルロオドは知性を持つが故に、経験によりその精神は成長する。  なので、将来的にはれいなにも『女の子のナイショば聞きたかとかまっことありえんばい!』などと罵られる未来が来るのかもしれない。 (それはショックかもしれないが……いずれその時が来たら、それもまたれいなの成長の証として受け入れよう)  一応は決意するが、できればそのような未来は訪れないで欲しい双鉄である。  それよりも、最近決まったばかりの『良い』未来の話の方で会話を楽しいものにしたかった。 「そういえば、キハ07のオーバーホールは再来週に決まったんだったな」 「んくんく……ぷはぁ〜! そおなんですよぉ!」  確認すれば、望んだ通りにれいなの顔に花が咲く。その喜びを隠さない無邪気さは『ナイショ話』で疎外されたオトコノコ時代の思い出を慰めてくれる癒しの笑顔だ。 「07s(レイナナエス)はずぅっとお休み無しでしたから、そうてつさんたちに営業運転を代わってもらえて大助かりですぅ」  つまりはそういうことだった。  御一夜鉄道は公共性という一点で市の援助を受けながら存続していた鉄道だ。その稼働はほぼ三百六十五日毎日であり、唯一の車両であるキハ07は当然ながら専門の技師に見せてのオーバーホールの暇などありはしなかった。  だが、その状況も8620の登場により大きく変わる。  御一夜鉄道が所有する駆動車輛が二両に増えたことで、キハ07がオーバーホールに入る余裕が生まれたのだ。 「ふだんの整備では交換できない部品も交換できますし、きっとすごぉく元気になっちゃいますよぉ」  すごぉく、と両腕を広げる。その幅は人間の大人に比べれば狭いものだったが、対象の車両の大きさを考えれば人間などまったく及ばない広大な「すごぉく」だ。  その喜びように、しかしだからこそ双鉄は申し訳ない気持ちもあって、皆で磨き上げたばかりの8620の方へ視線を向ける。  出会った時には傷だらけだった、だけれど今は多くの人々の力添えを得て復活した相棒の姿。 「その……すまんな。いつも、8620ばかり整備を優先されて」  思わず口を割って出たのは謝罪の言葉だ。  御一夜鉄道を支えてきたのは間違いなくキハ07だというのに、その会社が数億の融資を受けてしたことといえば大破した蒸気機関車の修復と最適化だ。  もし同じ金額をキハ07に注ぎ込めば、オーバーホールどころか新品同様の姿に戻してやることもできたに違いない。  だが。 「ふえ? どうして8620の整備が優先されて、そうてつさんがあやまるんですかぁ?」 「む? いや、しかし……」  逆に心底不思議そうな顔で尋ねられ、双鉄は言葉に詰まった。  これが気にするなという言外の意図でもあれば良かったのだが、大前提としてれいなは本気で双鉄の謝罪を疑問に感じているようだったからだ。  これは再び『ナイショ話』と同じコミュニケーション案件かと思いかけ、しかし次の瞬間双鉄は絶句した。 「順番がおかしいですよぉ? そもそも、8620が動かないと07sはオーバーホールもできないですよねぇ?」 「あ」  ぽかんとした。  自分の馬鹿さ加減に。  言われればまったくその通りで、キハ07が営業運転を欠かせない状況では、資金がいくらあっても改修など夢のまた夢だ。 (そんな当たり前のことを、何故失念した? いや……れいなの言う通り『順番』を間違えたのか)  時系列という最優先事項を無視し、れいなとキハ07がもっと優遇されるべきだと、感傷の方を優先して口に出してしまったのだ。 「うむ……すまん。確かに、れいなの言う通りだ」 「ですよねぇ」 「ただ、な。れいなとキハ07もがんばっているのだから、もっと早くオーバーホールをさせてやりたかった。そう思ったら、つい……な」 「!」  珍しく歯切れの悪い双鉄の物言いに、れいなが目を丸くする。さすがに呆れられてしまったかと双鉄は肩身を狭くしたのだが、 「うふふぅ。気にしてもらえてうれしいですよぉ」  双鉄の予想に反し、れいなはにんまりと頬に手を当てて相好を崩した。ぷにぷにとやわらかい頬はリンゴの色に染まり、目は幸せを描いた絵画がそうであるように三日月の形だ。  何が彼女の琴線に触れたのか。  双鉄が意表を突かれていると、れいなは椅子代わりの機材からひょいっと飛び降りて、ぽてぽてと双鉄の前へと歩み寄った。 「そうてつさん」 「む?」 「そうてつさんもすこぉし忘れんぼうなところがありますから、れいはなもう一度言いますねぇ」  改められるのは、つい先ほどの繰り返しだ。 「07sはずぅっとお休み無しでしたから、そうてつさんたちに営業運転を代わってもらえて大助かりですぅ。ふだんの整備では交換できない部品も交換できますし、きっとすごぉく元気になっちゃいますよぉ」  それは一言一句同じ言葉で――だけれどその次に続く言葉は双鉄にゆだねられる。  ならば、双鉄は反省をもとに、過ちを繰り返さないように分岐器(ポイント)を正しく利用して先ほどとは違うレールへ向かう言葉を紡ぐのみだ。 「ああ。れいなとキハ07が復帰するまでは、僕らがお客様を預かる」  自分に酔った感傷ではなく、彼女が安心してオーバーホールを受けられるような力強い言葉で宣言する。 「安心して、僕らに任せてくれ」 「はい……! そうてつさん。しばらくの間、湯医線のお客様をおねがいしますですぅ!」  ぺこり、とれいなの頭が下げられた。  それは気軽なようで、だけれど間違いなくキハ07s専用レイルロオドとしての感謝の一礼だ。  綺麗に腰を折った姿にはハチロクにも似た凛とした美しさがあり、れいなの新たな一面を見せられた双鉄は新鮮な心持ちで彼女の頭に手を伸ばした。 (撫でてやりたい)  と無意識のうちに手が動いていたのだが、双鉄は一つ失念していた。今日のれいなは、機関車整備で油まみれになった帽子を被っていたのだ。  結果、少女の頭を撫でた掌にはべちょっとした閉口せざるを得ない感触が返ってきたが、それも些細な問題だとすぐに思い直す。  何故なら、帽子越しに頭を撫でられたれいなが、とても嬉しそうに破顔したからだ。 「えへへぇ。撫でてもらっちゃいましたぁ。あとでポーレットに自慢できちゃいますよぉ」 「自慢になるのか?」 「なりますよぉ。ポーレット、たま〜に家でれいなにうらやましいって言うんです」 「ほう?」  それはなかなかに興味深い情報で、しかし同時に双鉄は心のどこかが警鐘を鳴らすのを感じていた。 (これは、アレではないか?)  『女の子のナイショ話』――だが、双鉄がストップをかける前に、れいなは邪気の無い太陽のような笑顔で言ってしまう。 「おしごとでおつかれの日とか、クッションに顔をうずめて、ベッドで足をバタバタ〜ってさせて、れいなばっかり撫でてもらってずるい〜って。だからそうてつさん、今度ポーレットがおつかれだったら、頭をなでなでしてあげてくださいねぇ」 「あ、ああ……善処しよう」  それは果たして双鉄が聞いて良かった話なのかどうか。  運転士(マスター)を気遣うレイルロオドの鑑とも称せる言動ではあるのだが――やはり、れいなには『女の子のナイショ話』は少し早いのかもしれなかった。               ※ ※ ※  ポーレットの微妙な秘密を知ってしまったことはひとまず忘れることにして、双鉄が興味のあることはやはりれいなの『休憩時間の過ごし方』であった。  合流したそばから整備作業に突入したことで忘れかけていたが、そもそもれいなが機関庫まで足を運んでくれたのは双鉄に『メリハリ』を講義するためだったはずだ。 「れいなは、普段はどのように休憩時間を使っているんだ?」 「休憩時間ですかぁ? コンちゃんと遊んだり、図書館とかよく行きますよぉ」 「図書館」  あまり『らしく』ない単語が飛び出して、双鉄は自分の記憶からそれに繋がる情報を探した。そう言われれば、れいながレールショップに入って来た際に鞄から本を取り出してポーレットに渡している姿を何度か遠目に見た覚えがある。  本とれいなという組み合わせが双鉄の中で紐づいておらず、あれはポーレットが入用なものをれいながお遣いしてきたものだとばかり思っていた。 「そうか、あれは図書館で借りていたのか。どんな本を読むんだ? 前にレールショップで絵本を読んでいたことはあったよな?」 「そうですねぇ。絵本とか、図鑑とか、動物がたくさんでてる本が好きですよぉ」  その辺りはイメージ通りで、双鉄は「うむ」とうなずいた。目をキラキラさせて動物図鑑を眺める姿や、ポーレットの膝の上で絵本を読んでもらっている姿などはたやすく想像できる。 「あと、週替わりのおすすめコーナーにおいてある本もよく借りますねぇ。どくしょの秋はおもしろそうな本がい〜っぱいなんですよぉ。昨日は『どんぐりと山猫』って本を借りましたぁ」 「宮沢賢治か。なるほど、れいなはたいそうな読書家だったのだな」 「えっへん!」  一つも偉ぶる様子の無い笑顔で、れいなはぺたんこの胸を張った。その仕草は容姿と相まって実に愛らしいが、毎週のように本を借りているのであれば、彼女の中にはその見た目にそぐわない相当な量の物語が蓄積されているはずだった。  レイルロオドの記憶力が読書にも適用されるかは不明だが、もしかしたら『童話の語り部・れいな』の爆誕も夢ではないのではと双鉄は妄想してしまう。  しかし、 「確かに休憩時間に利用するには図書館は良い場所だが、この格好ではそれもできんな」 「このかっこう……あ〜、それはそおですねぇ」  一瞬首を傾げかけたれいなだったが、煤と油に汚れた双鉄のナッパ服姿を見てすぐに眉をハの字にして理解を示した。 「入るなとは言われんだろうが、良い顔はされんだろうな」 「図書館はみんながつかう場所ですから、よごしたらダメですよねぇ」  施設はもちろんのこと本を煤で汚すことは絶対に許されない。  そういう意味で、と双鉄は改めてナッパ服姿のれいなを見遣る。上から下まで視線でチェックするが、やはり煤まみれのれいなというのは珍しかった。 「煤で汚れない……というのは、やはりディーゼル気動車の良いところだ」  服の汚れは着替えれば済むが、肌についた煤汚れだけは誤魔化しようもない。  すると、双鉄の言葉を褒め言葉と受け取ったのか、れいなは嬉しそうに提案してくる。 「うふふぅ。だったら、今度そうてつさんもキハ07を運転してみますかぁ?」  それはなかなかに魅力的なお誘いで、双鉄は二つ返事とばかりにコクコクとうなずきを繰り返した。 「それはいいな。僕がキハ07を走らせられるようになれば、ポーレットの助けにもなろう」 「わぁ! そおですねぇ。そしたらポーレット、助かっちゃいますねぇ」 「む?」  すっかりポーレットの交代要員としての期待も込みでの提案だと思っていた双鉄は、れいなの「さすがそうてつさんですぅ」という称賛に「いやいや」と口を挟む。 「待て待て。れいなは、僕をポーレットの交代要員とできることに気づいていなかったのか? てっきり、それも込みで誘ってくれたのかと思っていたのだが……」 「いいええ。れいな、そうてつさんとキハ07を走らせるのも楽しそうだなって思っただけですよぉ?」 「…………っ」  きょとんとしたれいなの大きな瞳に、双鉄は自分の深読みのまぬけっぷりを思い知る。  最近は『ナインスターズ』計画のための交渉事が多く、海千山千の宝生元忠に付き合わされる機会も多いせいか、相手の言動にはこちらの思考をコントロールする意図が隠されているのではと、知らずその腹を探る癖のようなものがついてしまっていた。  もう一度れいなを見れば、不思議そうにわずかに首を傾げた愛らしい姿には、自分の利益のために双鉄をどうにかしようなどという邪気など微塵も見られない。  だったら、と双鉄は考えを改める。  れいなの提案は、ポーレットの交代要員――つまり営業運転であることを排除した提案だ。  ならば、 (『そういうこと』になるか?)  思い至った結論は単純で、日常の中でよく耳にはするが自分には縁がなかった事柄だ。 (逢引き――いや、デート、か)  列車を走らせることを一番の喜びとするレイルロオドが、営業運転でも習熟目的でもない個人的な運転乗務に誘ってくれた――それを表現するなら、やはりこのひとことだ。  れいなは双鉄をめぐる『淑女協定』にも参加してくれているので、ガラではないが双鉄の方でも『前向きである』ということを示すことはやぶさかではなかった。  なので、双鉄は力強くれいなに向かって首肯する。 「そうだな。せっかくれいながデートに誘ってくれたのだ。その日には、僕も思い切りキハ07の運転を楽しませてもらおう」 「ふえ? デート、ですか?」 「仕事ではなく、ただ楽しむためだけに男女が共に出かけるのだ、そう言ってしまってよかろう。デート、逢引き、フランク語ならランデヴーだ」 「!?」  瞬間、ボフッとれいなの顔が沸騰した。機材から飛び降りた彼女は、わたわたと手を動かして動揺を体現する。 「ふわわわわ!? れ、れいな、そんなつもりじゃ……っ」  その慌てよう――というよりも、れいなの顔があまりにも真っ赤になり過ぎて、双鉄はぎょっとした。  もしやどこか壊れたのでは……そういう疑念が生まれるほどの照れを示したれいなに、双鉄はすぐさま事態の沈静化をはかる。 「お、落ち着け。今のは僕個人の見解だ。デートは双方の合意があってはじめてデートとなり得る。僕がそう思っただけで、れいなにそのもつもりがなかったのなら、それはデートではなく、ただのお出かけだ」 「た、ただの!?」 「そう、ただのお出かけだ」  ピタ、と振り回されていたれいなの手が停止した。  どうやら落ち着いてくれたか、と双鉄が安心すると、しかしれいなは絵の具の原色を垂らしたような赤い顔のまま、双鉄を見上げて尋ねてくる。 「でもでも、それって、れいながデートだと思えばデートになるってことですよねぇ?」 「無論だ」 「だったら……」  照れたまま、れいなはその場で大きく息を吸った。  吸って、吐いて、吸って、吐く。 「すううう。はあああ。すううううううう。はあああああああ……」  それは過度な熱を排気で逃がすルーティーンなのか、茹ダコだったれいなの色がわずかに落ち着き、色づいた桜のものとなる。  そうしてから、れいなは迷いのない微笑みを浮かべて言った。 「だったら、デート……れいな、そうてつさんとデートしたいって思うですよぉ」 「そうか。ならば、そうしよう」  示された意思に、双鉄は自らも機材から腰を上げた。膝を折って、目線をれいなの高さに合わせる。 「そう思ってくれるなら、お互いにそう思うのなら、それはデートだ」 「あ……」  軽く握った拳から小指だけを伸ばすと、れいなも意図を組んで細い小指をそこに絡めてくれた。  指切り。 「僕はデートというものは初めてなのだが……キハ07ならばれいな姫が素敵にエスコートしてくれることだろう」 「ええぇ〜。そうてつさん、そうてつさん。エスコートは王子様のお仕事なんですよぉ?」 「善処しよう。さしあたって、ポーレットと相談して臨時運転の予定を決める仕事は僕がやっておくさ」 「お願いしますねぇ。ポーレットに自慢できること、また増えちゃいましたぁ!」 「なによりだ」  ニコニコと、天気予報ならば日ノ本列島全ての都道府県に『れいな晴れ』マークがつく笑顔でれいなは双鉄との指切りを『切った』。  そして、濡れた瞳でうっとりと自分の小指を見つめ、もう一度にっこり。  『デート』認定一つでそこまで喜んでもらえるのであれば、双鉄も自分らしからぬ色恋への努力をした甲斐があるというものだ。 (デートの喜ばしさというのは僕にはよくわからんが……。しかし、僕とのデートを喜んでくれるというのは、実に光栄なものだ)  そのように考え、だがすぐに『光栄』というのはニュアンスが違うなと思い直す。 (いや、このこそばゆさこそが、嬉しい、ということなのだろうな)  それはわずかなニュアンスの違いでしかないのかもしれない。  向けられた評価や好意に心を震わされる、という意味では同じなのかもしれない。  だが、今れいなの喜びようを見て自分が抱いた気持ちを、普段よく使っている『光栄』などという言葉で冷静に処理してしまうのは違う気がしたのだ。  と。 「んふ。雀さんたちにも、うれしいのおすそわけですよぉ」  双鉄がどこか照れくささにも似た『嬉しい』を噛み締めている横で、れいなは持ち込んでいた食パンをちぎって機関庫の床にばら撒いていた。  食べやすいサイズにされたパンの欠片があたり一面に広がると、それを待ちわびていたように、無数の雀たちが天井の縄張りから『離陸』する。 「すごいな……急降下爆撃だ」  ちゅんくちゅんくと囀りながら数十匹に及ぶ雀たちが一斉にパンへと群がり、そして飛び去って行く。それは目にもとまらぬ早業で、彼らが去った後はひと欠片の物資も残されてはいなかった。 「見事なものだ。……あちらも」 「あ、コンちゃんの分もありますよぉ」  突然の雀の大合唱を聞き咎めたのか、駅長狐のコンが機関庫へとひょこっと顔をのぞかせていた。その警備への義務感に双鉄は感心したが、れいなに呼ばれて駆け寄ったコンの顔をみれば鼻の頭に白いご飯粒が一つだ。 「コンちゃん、ひびきさんにごはんもらったんですねぇ。ちゃあんとおれい言いましたかぁ?」 「ケン!」  威勢の良い返事をして、狐は長い舌でぺろりとご飯粒を舐めとった。それならば腹も満たされているのではとうかがえば、コンの視線はれいなの持った油揚げに注がれて外れない。 「コンちゃん、食べ過ぎると太っちゃいますよぉ?」 「ケン! ケン!」 「う〜ん。なら、しかたないですねぇ」  会話が成立している。  交渉はコンの望む通りに進んだようで、れいなが油揚げを差し出すとコンは嬉しそうにそれに食らいついた。 「コンは何と言っていたのだ?」 「今朝のコンちゃんのごはん、雀さんたちに食べられちゃったらしいんです」 「それはゆゆしき問題だな」  双鉄は眉根を寄せて頭上の雀たちを睨むが、煤で真っ黒に染まった盗賊団は素知らぬ顔でちゅんくと鳴き返すのみだ。  ふてぶてしい彼らの姿に、れいなも困ったように言う。 「雀さんたちもれいながごはんあげてるときはそういうことしないんですけど、朝は乗務がありますから」 「れいながいない隙に、コンの朝食を奪い去るわけか。コンの方が大きいが、多勢に無勢だしな」  雀は素早いので、一羽を捕まえるのにも大変な労力がかかる。しかもそれが何十匹と襲いかかるとなれば、いかに誉れ高き駅長狐といえども朝飯を蹂躙されるしかなかったのであろう。 「レールショップの中に入れるわけにもいかんしな」  駅長狐という役職を与えられているとはいえ、コンは屋外での放し飼いだ。自由気ままに散歩する以上足の裏は汚れており、商品を並べたレールショップに入れるわけにはいかなかった。  何か対策を……と考えれば、まず最初に思いつくのは彼らと『対話』できるれいなの存在だ。 「れいなから雀たちに言い聞かせることはできないのか?」 「何度かおねがいしたんですけど、あたらしい子が増えるとどうしてもごはん足りないみたいなんですよぉ」 「おお、そう言えば確かに前よりも増えてるな」  見上げれば、数か月前は鉄骨一本に収まっていた雀たちが今や機関庫内の鉄骨全てに鈴なりになっている。  雀のリーダーである加藤雀と同じくらい立派な大きさの雀も何羽か増えており、それらの新入りのせいで全体の統率が乱れている可能性は確かにあった。 「さすがの加藤雀も、この数は持て余すか」 「群れ、三つあるらしいんですよぉ」 「それぞれにリーダー……いや、隊長がいるわけだな」  見知った加藤雀に匹敵する二羽。  相手が人間であれば代表選挙も持ちかけられるだろうが、もしそれが可能でもれいなと懇意の加藤雀を大隊長に当選させる自信は双鉄にはない。  ならば、ややずるいが、野生でも通じそうな理屈の中で自分たちに一番都合が良いものを提案するまでだ。 「見たところ、あの中で一番大きいのは加藤雀だが、年齢も一番上なのか?」 「ねんれい、ですか? まえに、いちばん年上だっていうのは聞いたことありますよぉ」 「うむ。ならば、くらすずめたちに『年功序列』をすすめてはくれないだろうか」 「ねんこおじょれつ?」 「一日でも長く生きている者がより強い発言権を持つ、という仕組みだ。簡単に言えば、一番年上の加藤雀が一番偉い雀になる」  誰が一番強いか、などでは加藤雀も無事ではすまないだろう。また、誰が一番大きいかでは、若手の誰かがそのうち加藤雀よりも大きく成長するかもしれない。  だが、年齢だけはどうやっても覆らない。  加藤雀が持つ『絶対に勝てる要素』を利用して、加藤雀を頂点とした組織作りをするのが双鉄の目論見だ。  自然界の住人に干渉するのは気が引けるが、機関庫という人間の領域に住むのだからそれなりのルールを設けさせてもらう権利が人間側にもあるだろうというのが双鉄の言い分である。 「少し卑怯ではあるがコンのためだし、群れをまとめてしまった方が雀同士の争いも減るだろう。足りない分のエサも近場で良い餌場を探し、それでも見つからなければ御一夜鉄道から予算を組んでも良い。雀が近所の飼い犬のエサまで食べ始めたら苦情が来るかもしれんし、『くらすずめ』も蒸気機関車の風物詩だと言えばポーレットも反対すまい」 「ほえぇ〜……」  目をまるくして、れいなは双鉄を見る。大きな瞳には強い尊敬の色が出ており、それはやがてやわらかい頬を持ち上げる三日月の唇へと変化していった。 「やっぱりそうてつさんはすごいですねぇ!」  ぴょんぴょんとその場で飛び跳ねて、れいなは興奮を隠しきれない口調で言う。 「れいな、コンちゃんがごはんとられちゃうたびに雀さんたちにおねがいして、でもすこししたらまたたべられちゃって……そしたらまたおねがいして、そおいうふうに繰り返していつかわかってもらうしかないとおもってましたぁ」 「うむ。根気よく説得を続ける。それも間違いではない」 「でもでも、れいなのおねがいだと、雀さんたちに我慢してもらうことになっちゃってたと思うんですよぉ。なのに、そうてつさんにお話したら、こーんなに簡単に解決案が出ちゃいました!」  駅長狐も、雀たちも、それから彼らを観光に活かしたい人間たちも。全員が得をする方向性があれば、それに越したことはない。  しかし、れいながやや先走っているのも確かで、双鉄は彼女を落ち着かせるために先ほどの要請を繰り返した。 「無論、全員がそれぞれに得をすることになれば最善だ。だが、そのためにはまず、雀たちに年功序列が可能か尋ねてくれるだろうか」 「そ、そおでした」  興奮のあまり自分の仕事を忘れていたれいなは、改めて頭上の雀たちに向かって声をかける。 「雀さ〜ん、ちょっといいですか〜!」  不思議なもので、普通に日ノ本語でしゃべっていても、れいなの言葉の意味は雀たちに伝わる。幾度目にしてもその仕組みがわからず双鉄は首を傾げるのだが、そこはもう『れいなだから』で済ますしかない。  ともあれ、れいなの説明に納得したらしい雀たちにれいなが号令を放つ。 「せいれーつ! ぴぴー!」  ちゅんく! 「おお!」  思わず双鉄が感嘆の声をもらしてしまうほどに、それは壮観な光景だった。れいなの声に応えた雀たちが足場を一斉に飛び立ち、機関庫の端から双鉄たちのいる場所まで一列に並んだのだ。  そして、その一番手前――双鉄たちの目の前の床に降り立ったのは、やはりと言うか最年長の加藤雀だ。  さらに、 「ケン!」  加藤雀よりもさらに手前側にコンが座り、自分の地位を主張した。仮にも『駅長』であるコンが年功序列でも加藤雀よりも上に立てたことは、双鉄の計画以上の好結果だ。 「どうやら雀たちも納得してくれたようだな」 「そうてつさん、そうてつさん」 「む?」  これでこの話もおしまいかと思ったタイミングで、れいなが双鉄の手を引いた。それで何をするのかと思えば、コンの前に双鉄が、さらにその前にれいなが並ぶという年功序列の最後の仕上げだ。  機関庫の中で双鉄を、駅長狐を、果ては無数のくらすずめたちまでも一列に従えたれいなの姿は、まるで彼女の好む児童書の主人公のようだった。 「うふふぅ。ねんこうじょれつだと、れいながいちばんえらいんですよぉ」  手を繋いだまま、れいなは上機嫌に双鉄に言った。実際、御一夜鉄道で年功序列でれいなの上に立てるのはハチロクしかいない。 「そうだな。僕などより、れいなが一番の方がコンたちも納得だろう」 「ケン!」  元気の良いコンの返事に、ちゅんくという雀たちの鳴き声も重なる。それは双鉄の言葉が彼らに通じたようにも感じられ、双鉄は「これで僕も童話の仲間入りか」と噴き出した。 (そういえば、れいなが借りたという『どんぐりと山猫』にも、争う者たちをとんちで収める裁判シーンがあったな)  裁判の場で、どんぐりたちは誰が一番優れているのかを競う。  ある者は頭が尖った者が偉いと主張し、ある者はまるいことこそが偉い、大きいことこそが偉い、背の高いことこそが偉い――収集がつかなくなるお話だ。  その場を主人公が収めた条件は子供が見れば笑い、大人が見れば唸らされる「さすが賢治」という内容なのだが、三日間続いた裁判をたったの一分で終わらせたというそのシーンは確かに今の双鉄たちに似ているかもしれなかった。 (だが、僕らに例えるなら、もっと違うものだな)  双鉄は首を巡らし、一列になった自分たちの姿を確認する。  まっすぐな連なりと言えば、表現は一つしかない。 「こうして見ると、列車のようだな」 「わわっ、ほんとおですねぇ! すごい、何両編成ですかぁ?」 「数える気にもならん。もしかしたら、九洲一……いや、日ノ本一の多両編成かもしれん」 「はわわぁ……れいな、日ノ本一になっちゃいましたぁ!」  そう言ってれいなはクスクスと笑い、ひーふーみーと『車両』の数を指差し確認で数えだす。  その行為は、言ってしまえばただの確認作業でしかない。だけれど、れいなの声は一つ数える度に楽し気に弾み、数が区切りの十や二十を刻む度に全身が上下に跳びはねる。  それはいかにも微笑ましく、双鉄も目を細めて微笑まざるを得ない光景だ。  だが、同時に首を傾げたくなる光景でもある。  この場に作られた長い年功序列という名の列車が示すように、れいなの生きてきた時間はこの場にいる誰よりも長い。だというのに、れいなという先頭車両は、他のどの車両よりもずっと『新鮮』にものごとを楽しんでいるように双鉄には感じられたのだ。  それは『れいならしい』と言えばらしい姿だったが、理屈でものを考えがちな双鉄にとってはその理由が気になるところだ。 (正直、羨ましいとも思うしな)  楽しそうなれいなを見ていると幼い頃の、図鑑を見る度に世界が広がっていったあの感覚を思いださずにはいられない。  布団の中で大きな図鑑を広げ、双子の路子と肩を並べて夜更かししたあのワクワク感は、大人になってしまった今ではもう得難いものだ。  やがて、れいなが数え終えて「むふ〜」と鼻息も満足げになったところで、双鉄は尋ねてみる。 「なあ、れいな。れいなはここにいる僕らよりも年上だが――あ、いや、年齢の話は失礼か」  言いかけて、止める。  だが、幸いにもれいなはそのあたりには寛容であった。 「なんですかぁ? ごしつもん、れいなにわかることなら、なぁんでもこたえますよぉ」  いつも通りに大らかなれいなの態度に助けられ、双鉄は「すまんな」と非礼を詫びつつ質問を続けた。 「れいなはこの中で一番年上だが、生きている時間が長いということは、より多くのことを経験しているということだ」 「そおですねぇ」 「だが、僕にはれいなの毎日が新しいことに満ちているように見える。毎日新しいものに触れ、楽しんでいるように見える。それが、僕にはたいそう素晴らしいことに感じられてな。もしコツや心構えのようなものがあれば、教えを請いたいと思ったのだ」  無論、そうした心のありようなど一朝一夕でマネできるものではないことはわかっている。それでも、れいなの世界への接し方の片鱗でも知ることができれば、それを課題である自分の『メリハリ』にも活かせるだろうと期待しての質問だ。  だが、れいなの回答は双鉄にとって予想外なものであった。 「べつに、コツとかないですよぉ?」 「む……そうなのか?」 「だって、今だってふつうに毎日新しいことばかりですからぁ。れいな毎日びっくりどっきりしてばかりなんですよぉ」  だって、と彼女は毎日を新鮮に楽しむきらきらとした大きな瞳を双鉄に向けて言う。 「れいな、ここに来るまで、とおい街と街をつないで人を運ぶことなんてなかったんですよぉ」  ――御一夜市みたいなおおきな街でくらしたこともなかったですし。  ――ポーレットが誕生日にくれたケーキも生まれて初めて食べたんですよぉ。れいな、レイルロオドですから人間の食べ物ってあまり食べられないんですけど、あのケーキだけはぜーんぶ食べちゃいました!  ――登呂流湯さんみたいなおっきなお風呂もびっくりしましたし。  ――図書館だって鉱山町にあったものにくらべるとずっとおっきくて、読んでみたい本が数えきれないくらいにいっぱいあって。  ――あ、『おひとよし通信』! れいな、こらむって初めて書いたんですよぉ。  幾つも並べられる、れいなの最近の『新しいもの』。その多彩さに双鉄は目を見張るしかなかった。  その反応が何かの琴線に触れたのか、れいなは繋いだ手にぎゅっと力を込めて、空いている手で8620を指さした。  皆で整備したばかりの蒸気機関車。  それはホームで双鉄を導く手旗のように、彼の思考に一つの道筋をくれる。 「さいきんだとやっぱり蒸気機関車ですねぇ。れいな、蒸気機関車の整備、初めてやりましたからぁ」 「……そうだな」  言われるまでもなかった。  新しいものに囲まれているのは、双鉄だって同じことだったのだ。そのことに気づけたがために、双鉄は晴れ晴れとした気分でうなずくことができた。 「僕もれいなと同じだ。御一夜に帰ってきてハチロクに……鉄道に出会った。まだ整備もろくにできんし、今日もハチロクとれいなに教わってばかりの、毎日が新しい学びだらけの未熟な新米機関士だ」  考えてみれば、御一夜市という街自体も双鉄はまだほとんど巡っていない。アイデア出しに日々姫やポーレットに連れられて名所を観て回ったが、それも客として表面をなぞっただけで『知った』とは言い難いだろう。  本当に御一夜を知るならば、客としてではなく、そこの住人として各所を訪れる機会も必要に違いない。 (ああ、なんだ。やることは……『新しいこと』はいくらでもあるのだな)  双鉄とれいなは、どちらも他の皆に比べて御一夜の新参者だ。だから、自分から出向けば周りは新しいことに満ち溢れている。  そのような宝島に数ヶ月もいながら忙しさにかまけて周りに目を向けることを怠っていたのは、双鉄の反省すべき点である。 (今度、予定の無い休日にハチロクを誘って散歩でもするか)  機関士とレイルロオドという関係上、双鉄とハチロクの休日は一致している。ハチロクの視点は人間とはまた違った独特なものなので、二人で歩けばきっと楽しいに違いないと、予定に組み込んでおく。  ともあれ。 「要するに、僕とれいなは言うなれば『御一夜新参者の会』の会員というわけだな。僕も先輩のれいなを見習って、もう少し積極的にならないといかんと痛感した」 「ふ、ふ、ふ。そうてつさんは、れいなの後輩さんなんですねぇ」 「うむ。僕と……それからハチロクがれいなの後輩だな」 「えへへぇ。れいな、ついにハチロクさんよりもえらくなっちゃいましたぁ!」  年功序列で惜しくもハチロクの後塵を拝したれいなであったが、新参者の中では古参の部類である。  生まれからして姉妹機という、あまり『一番』に馴染みがない立場だからか、れいなは本日立て続けに得た『一番』の称号にぷしゅ〜っと蒸気が上がるほどに舞い上がった。 「連結車両数日ノ本一も、しんざんものの会のせんぱいさんも、れいなとぉってもうれしいですよぉ!」  繋いだ手のぽかぽかとした温かさがそのままれいなの喜びを伝えてくれるようで、双鉄は自分も知らず頬をゆるめていた。  そして、ふと思う。 (もしれいながナッパ服でなかったなら、僕はこの手を取っていなかったかもしれないな)  彼女の綺麗な服の袖口を汚してしまうからと、指切りすらしていなかったかもしれない。  だとしたら、この掌のぬくもりは汚れを気にしなくて良いようにというれいなの心遣いが双鉄にくれたものなのだと、そう思われた。 (ならばこの掌の温かさこそ、れいなの心なのだろう)  人間である双鉄などよりずっと温かくやわらかい掌。  小さいけれど、とても頼りになるしっかりとした存在感がそこにはあった。 (レイルロオド……か)  その存在の有り方を、双鉄はまだ完全に理解したわけではない。  だが、双鉄が知る三人のレイルロオドは皆それぞれに不思議で、それぞれに魅力的な存在だ。  新鮮なもの、新しいものというのならば、彼女たちの存在こそ双鉄にとって何よりの刺激材料に違いなかった。 「……今更だな」 「?」 「いやなに。新しいことを求めるなら、れいなやハチロクもまた、僕にとってまだまだ未知の存在であるなと再認識しただけだ」 「れいなたち、レイルロオドですからねぇ」  さもありなん、とばかりにれいなは納得のうなずきを返した。そのあっさりさに、双鉄はむしろ意表を突かれてしまう。 「珍しくないのか、そういうのは?」 「らしいですよぉ。『てつ』の中には、レイルロオドてつってひとたちもいるって、ポーレットが言ってましたぁ」 「レイルロオド鉄……つまり、鉄道の中でも特にレイルロオドに注目する方々ということだな」  それならば納得できる、と双鉄も首肯した。鉄道全てが『鉄』の範囲ならば、車両と共に製造されるレイルロオドもまたその興味の範疇であることは自明の理だ。  双鉄自身、バーベキュートレインの始発前にハチロクの撮影許可を客に求められたことがある。今思い返せば、あの見事な機材で四方八方からハチロクを撮影していた方々こそ、噂のレイルロオド鉄ということなのだろう。 「なら、機会があればその方々にも尋ねてみたいものだ」 「なにをですかぁ?」 「レイルロオドの手が、これほどまでに温かく、やわらかいことの意味を」  双鉄が触れ合わせた手に力を込めると、れいなは少しびっくりしたような顔をして、だけれどすぐにまぁるい笑みを浮かべてその手を握り返してくれた。  それは、やはり温かく。  それは、やはりやわらかい。  レイルロオドが鉄道運行をサポートするだけの存在であるならば、この温かさとやわらかさにいったいどのような理由があるというのか。 「手ですかぁ。どおしてなんでしょうねぇ?」 「レイルロオドのれいなにもわからないことか?」 「れいな、わからないこといっぱいありますよぉ。レイルロオドのこと、ないしょになっていることたくさんありますから。だから、わからないことがある時は、登呂流湯のおばあちゃんに聞きに行くんですよぉ」 「ふむ。そこは餅は餅屋ということか」  登呂流湯のご主人は、双鉄の知る限り御一夜にただ一人のレイルロオド職人だ。その腕前は元帝鉄職員の赤井宮司が太鼓判を押し、現在はハチロクとれいなのメンテナンスの全てを担当してくれている。  レイルロオドを製造する側の人間であれば、レイルロオド本人よりも彼女たちについて詳しいというのは当たり前の話かもしれない。 「例えば、どういうことを訊いたりするんだ?」 「そおですねぇ。Aをしたらうれしいって思える人とそうでない人がいるのはどうしてなのかなぁって、この前おばあちゃんに聞いたんですよぉ」  そのAが『何かの例え』ではなく『恋のABC』のAだということは双鉄にもわかった。  この場合は、れいながAをしたら嬉しいと名指しされた双鉄と、それ以外の人物の差ということになるだろう。 「そうしたら、登呂流湯のおばあちゃんおしえてくれました。れいなの中は、鉱山みたいなものだって」 「鉱山」  それはれいなにわかりやすい例えを使ったのだろうな、と双鉄は察する。鉱山はれいながもっとも長い時間を過ごした場所であり、その人格のベースになった経験を積んだだろう故郷だ。 「鉱山にはれいなの心のいろんなものが結晶になって埋まっていて、ポーレットやそうてつさんたちとおはなしするとうれしい気持ちになるのは、みんながれいなの『うれしい』って結晶を掘り当てる名鉱夫だからだって」  れいなは賢者の教えを伝える弟子のように誇らしげに言う。  それで、とれいなは瞼を下ろした。 「その中でも、Aをしてもいい気持ちの結晶はとくべつで、見つけるのがとぉってもたいへんなんだっておばあちゃん言ってましたぁ」  おばあちゃんの結晶もおばあちゃんの旦那さんしか見つけられなかったって。  人もレイルロオドも、一生のうちに何個も掘り当てられないくらい大切な気持ちだって。  鉱山の一番奥で、誰かに見つけられる日を夢見て眠っている、とくべつな気持ちだって。  だから、と瞼を上げたれいなの瞳には大きな喜びがある。 「だから、Aをしたらうれしいって思える人と、そうでない人がいるのは、あたりまえなんだよって。そうおしえてもらって、れいなほっとしちゃいましたぁ」 「……うむ」  晴れやかなれいなの微笑みに、双鉄はわずかな気恥ずかしさを覚えながらもうなずいた。煤で汚れた頬が熱いのは、気のせいではない。  れいなの心が覚えた不安を「当たり前のこと」と諭した登呂流湯のご主人の手並は鮮やかであるが、こうして面と向かって解説される『Aをしたら嬉しい』相手当人としては気まずいどころの話ではなかった。  故に、双鉄は即座に咳払いして話題の路線変更を実行する。 「ゴホン! だ、だが、名鉱夫とは面白いな。時代が時代なら、僕も炭鉱で働いていたやもしれん」 「あ、術仙炭鉱ですねぇ」  やはり鉱山の系の話になるとれいなの食いつきも早い。これ幸いにと、双鉄は想像の翼を広げて全盛期の炭鉱町で生活する自分の姿をイメージする。 「ふむ。早起きして鉱山に出かけ――」 「トロッコに乗って、しゅっぱーつ! しんこーーーぉ!」  大きな声で、れいなが双鉄のイメージに乗ってくれた。トロッコのことなどすっかり忘れていた双鉄は、その補完でさらに映像を鮮明なものにする。  ごっこ遊びは、やはり形からだ。  れいなの手を放した双鉄は、架空のツルハシを頭上に振りかぶってえいやと振り下ろす。それもまたれいなに好評で、彼女は両手を叩いてきゃっきゃっと歓声を上げた。 「そして石炭を掘って掘って掘りまくり――」 「おしごとが終わった頃には、顔も手もまっくろで……あ」 「……おお!」  そこで二人は同時に気がついた。  『名鉱夫』の炭鉱生活を再現するまでもなく、双鉄の顔はすでに真っ黒だ。  思わず顔を見合わせた二人は、お互いの汚れたナッパ服が目に入って、堪え切れずに噴きだした。 「どうやら、僕はどの時代に生まれてもこうして煤にまみれる宿命らしい」 「そおですねぇ。でも、れいな、そうてつさんはやっぱり鉱夫さんよりも機関士さんの方が似合ってるって思うですよぉ」  にこにこと笑顔で言ってくれるれいな。  それこそ、双鉄にとって最上級の褒め言葉なのであった。               ※ ※ ※  れいなを迎えにポーレットが石造機関庫に顔を見せたのは、休憩時間も終わり8620チームが蒸気機関車に石炭と水を補充しようと動き始めたタイミングだった。 「わっ。なんだかすごい綺麗になってますね」  開口一番。磨き抜かれた8620を見て感嘆を漏らしたポーレットに、双鉄と日々姫はお互いに親指を立てて奮闘を称え合う。  そして、育ちの良い日々姫は外行きモードの礼儀正しさをもってポーレットにお辞儀をした。 「ポーレットさん、今日は差し入れありがとうございました」 「いえいえ。むしろ、普段は差し入れをする余裕がなくて申し訳ないくらいです。機関庫への差し入れって、帝鉄時代には頻繁にあったらしいですし……。人数が少ない分、福利厚生くらいは帝鉄に負けない鉄道会社を目指したいですっ」  むん、と御一夜鉄道の代表取締役はガッツポーズで気合を入れる。  帝鉄の話題が出たので双鉄がハチロクを見れば、彼女はうなずいて懐かし気に口を開いた。 「帝鉄では機関庫への差し入れは煙草が多く使われていました。仕事を終えた機関士たちが壁に背を預け煙草の煙をくゆらせるのも、機関庫の日常的な風景の一つだったのです」 「なるほど……煙草というのは、大詔・正和通じての労働の象徴だな」  戦時中も兵士たちには煙草が配給されたそうだしな、と双鉄はうなずく。聞くところによれば、煙草欲しさに志願して兵士になった者もいたくらい、嗜好品として喜ばれていたらしい。 「しかしまあ、僕らは誰も煙草はやらんし、今日のような飲み物やタオルの差し入れがありがたい」 「ふふ。喜んでもらえて嬉しいです」  クーラーボックスを使った冷やしタオルの好評に、ポーレットも会心の笑みだ。  そうして、人間同士の挨拶を終えると、彼女はすっかり汚れたれいなの方に向き直る。 「今日はいっぱい汚れちゃったわね」 「はぁい。れいな、い〜っぱいそうてつさんたちのお手伝いしましたよぉ」 「うん、わかる。すっごくわかる」  一目瞭然とはこのことで、ポーレットは煤だらけ、油だらけになったれいなのナッパ服に目を細めた。 (ああ……)  その表情は大昔に双鉄の母がどろんこになった兄妹を見る時に見せたものとまったく同じで、双鉄は不覚にもそんな彼女の微笑みに目を奪われてしまう。 「…………」 「双鉄くん?」 「あ、いや」  まさか母親のようだったなどとうら若き未婚女性に言うのも失礼な気がして、双鉄は慌てて話題を逸らすことにした。 「今日はれいなに大いに助けられた。『メリハリ』のコツ……というほどでもないかもしれないが、僕なりの糸口は見つかった気がする」 「そうてつさん。れいな、おやくにたてましたかぁ?」 「無論だ。大いに助けられ、大いに役立ったとも」 「えへへぇ。それなら、れいなうれしいですよぉ」  双鉄が力強く保証すると、れいなはほにゃっととろける笑みを見せてくれた。その笑顔は実に愛らしく、お礼を言う立場の双鉄はさらに『贈り物』をされたような気持ちにさせられてしまった。  お礼を言うと、れいなが笑顔になってくれる。  れいなが笑顔になると、お礼を言いたくなる。 (無限ループというやつだな)  それも最上の、この上なく幸せな無限ループだ。  だが、万年人手不足の御一夜鉄道のこと、休憩時間が終わった業務時間に幸せのループをしている暇はない。  そのことを一番わかっているのは、ループを生み出す力をもつれいな本人だ。 「ポーレット。れいな、そろそろレールショップに行ったほうがいいですよねぇ?」 「うん。だから、はい」  言うが早いか、ポーレットは制服の胸ポケットから鍵を一本取り出してれいなの小さな掌に乗せた。  それが整備を始める前に話題になった『お風呂に入れる場所』の鍵と察した双鉄は、鍵の持ち主に素朴な疑問をぶつける。 「それが風呂に入れる場所とやらの鍵か?」 「あ、双鉄くんたちには言ってませんでしたっけ。すぐ近くにわたしの家があるんです」 「ああ」  単純と言えば単純な答えで、謎の施設などではなくただの住所問題であることに双鉄は苦笑いを浮かべた。どちらかと言えば、家風呂の使用NGな右田家のような環境の方が珍しい部類なのだ。  ともあれ。 「それじゃあ、れいな行きますねぇ」 「うむ。今日は色々と助かった」  いつもより賑やかな整備だったためか名残惜しい気持ちもあったが、双鉄たちは手を振ってれいなを見送った。  ――見送ろうとした。  のだが。 「れいな、ちょっと待って。――双鉄くん、これの反対側を持って、れいなに巻き付けてもらえますか。腕が出ないようにして、一周でいいですから」 「バスタオル?」  置いてあったクーラーボックスからポーレットが取り出したのは、かなり長尺のバスタオルだった。  とりあえず雇用主に言われるままにバスタオルをれいなに巻き付けると、反対側を持つポーレットはれいなから距離をとり、布の遊びを無くしてピンと張らせてから呼びかける。 「れいな、くるくるくる〜」 「わぁい!」 「ひゃあ! かわいい! にぃに、あれかわいい!」  日々姫が黄色い声を上げるのも当然で、れいなは掛け声に応じて身体を横に回転させてポーレットに向かい『ぐるぐる巻き』になっていく。それを見て口から出る感想は「可愛い」以外ありえなかった。  そうして爆誕するのは、 「……簀巻き?」  これまでの人生で一度も口にした覚えのない単語を双鉄の舌は紡いだ。  れいなのぐるぐる巻き。レイルロオドのバスタオル巻きだ。  その意図はと考えれば、答えは一つしかない。 「部屋を汚さないためか」 「大丈夫だとは思うんですけど、念のため」  れいなは足回りに不安があるためか、時折なんでもない場所でコテッと転んでしまうことがある。本人の歩く速度がゆったりとしたものなので転んでも大事には至らないが、今回は着ているナッパ服が汚れているというのが問題なのだろう。  で。 「そして、僕に運べというわけだな?」 「あ、わかっちゃいました?」  依頼を先回りされ、ポーレットは我が意を得たりと胸の前で掌をポンと触れ合わせる。  ポーレットは無人のレールショップに戻らなければならないし、日々姫やハチロクだと体格的に不安がある。ならば双鉄が運ぶしかないというのは必然の流れだ。 「場所はれいなが知っていますから。鍵を開けてバスルームにれいなを置いたら、双鉄くんは業務に復帰してください」 「了解した」  では早速、と双鉄はれいなに歩み寄った。ぐるぐる巻きの少女を、決して落としたりしないようにお姫様だっこの形に抱え上げる。  すると、 「まあ」 「あはっ」  ハチロクが微笑まし気に目を細め、日々姫もまた面白いものを見たとばかりに破顔した。  なにごとかと双鉄は思うが、抱えたことですぐ近くにあるれいなの笑顔が状況を理解さ せてくれる。 「れいな、赤ちゃんみたいですねぇ」 「なるほど……確かにそうも見えるな」  おくるみに包まれた赤ん坊に見立てられ、しかしれいなは楽しそうに言う。 「れいな、赤ちゃんだったことないですから、こういうの新鮮ですよぉ」  それはハチロクも同じことで、双鉄が視線を送れば彼女はコクリとうなずきを返した。  その事実に双鉄は思う。 (レイルロオドというのは長生きな分だけ僕らよりもはるかに経験を積んでいると思いがちだが……そもそも経験『できない』こともあることを忘れてはいかんな)  そうした部分を見極め、お互いに足りない部分を補っていく。それが機関士とレイルロオドがより良い関係を作っていくためのコツなのかもしれないと、双鉄には思えた。  なので、 「それは面白い話だな。では、僕もその点に関してはれいなの先輩というわけだ」 「うふふぅ。そうてつさん、赤ちゃんせんぱいですねぇ」  本来なら得られないはずの体験に、れいなは双鉄の腕の中で瞳をきらきらと輝かせている。  そんな彼女に少しでも快適に『赤ちゃん体験』してもらうため、双鉄はいつもの大股ではなく、その半分くらいの歩幅でゆっくりと機関庫の出口へと歩き出した。  ゆっくりと。  揺らさないように。  そうすれば、気づくこともある。 (なるほど、揺らさないように気遣って歩く……か。これは赤ん坊でもいなければ経験できないことかもしれんな)  それは双鉄にとってもなかなかに新鮮な体験であった。  休憩時間に学んだことを思いだす。  世界には――御一夜市にはその気になればいくらでも新しいことが転がっている。  これから向かうポーレットの家も初めてだし、言ってしまえば午後の乗務でお乗せするお客様方も双鉄にとっては一人一人『新しいお客様』だ。 (そのことを忘れなければ、乗務もおのずから良い緊張の中でおこなえよう)  慣れを排除し。  安心を疑い。  毎日の乗務を一期一会の心構えで丁寧に。  れいなを通じて理解した大切なことは、機関士としての業務に生かせることばかりであった。 (うむ!)  『メリハリ学習週間』――告げられた時はどれほどの効果があるものかと疑問に思っていたが、ここまではっきりと効果があると、双鉄の方もやる気が出てくるというものだ。 (次の休憩時間は、より前向きに『新鮮』な気持ちでメリハリの学習に努めるとしよう)  そのように双鉄が考え、その歩みが駅前通りに差し掛かった時、れいなが「あ」と口を開いた。  その声音はいつになく硬質なもので、双鉄は思わず足を止めてしまう。 「どうした?」 「あうぅ……」  促せば、れいなは非常に申し訳なさそうに言うのだった。  曰く、 「れいな、家の鍵を手に持ってしまってるんですけど……だいじょおぶですかぁ?」  ――と。  そうして、『新しい経験』には失敗もまたつきものであることを、双鉄は改めて学ぶのであった。  ちなみに。  鍵を回収したあと天下の往来で再度れいなをぐるぐる巻きにした双鉄の姿は、しばらくの間駅前通りの笑い話として大いにネタにされてしまうのであるが……それはまた後のお話である。           『 れいなの場合 〜天然結晶の見る夢〜 』 了